「くるま宿」(松本清張)

何という潔い身の処し方、何という高邁な精神

「くるま宿」(松本清張)
(「日本文学100年の名作第4巻」)
 新潮文庫

「日本文学100年の名作第4巻」新潮文庫

東京の人力俥屋に、
四十を過ぎた吉兵衛という男が
俥引きとして働きたいと
やってくる。
仕事は重労働だったが、
病気の娘を抱えているという
吉兵衛は、
毎日黙々と働き続けた。
酒も飲まず博打もせず、
ただ柔和な顔を見せていた…。

主人公・吉兵衛の説明をしただけで
粗筋紹介にはなっていません。
吉兵衛が俥屋「相模屋」に来てから起きる
二つの事件が
本作品の肝となっています。

一つは相模屋の隣の料亭に
押し込み強盗が入った一件です。
その賊一味を、
吉兵衛は一人で瞬く間にたたきのめし、
事態を収拾するのです。
彼は剣の腕の立つ侍であることが
わかるのです。

しかし彼はそれを自慢するのでもなく、
むしろ侍であったことを隠し続けます。
また、彼に救われた大旦那たちが
条件の良い仕事を世話しようとしても、
頑なに固辞し続けます。

もう一つは、
相模屋の若い衆と政府高官宅の
車夫・書生との諍いの一件です。
両者がいきり立つその場を、
吉兵衛が見事に収めます。

後日、その高官が相模屋に
詫びに来るのですが、
吉兵衛はその高官から
「師」と仰がれていることがわかります。
しかし吉兵衛は娘ともども、
どこかへ引っ越し、
行方をくらましてしまうのです。

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吉兵衛の本名も役職も履歴も、
何も明かされません。
しかし、
彼が武芸にも学問にも秀でていて、
かつ人格者であり、
若い世代を教え導いていたことが
推察されます。
それだけの名声がありながら、
なぜ車夫などに
身を落としていたのか?

彼は幕府側の侍だったのでしょう。
政府の役人として取り上げられることは
薩長に屈することとして快しとせず、
野に下ったと考えられます。
そして、
縁を頼りに厚遇を受けることも、
かつての教え子たちに
情けをかけられることも、
侍としての誇りが
それを許さなかったのだと思われます。
過日の栄光に縋らず、
かと言って手のひらを返したような
処世をするのでもなく、
自らの力一つで
身の丈に合った生活を送る。
それがたとえ過酷なものであっても。
「昔の夢をみている士族はだめだな。
 だんだん世の廃り者だ」

吉兵衛の述懐です。

何という潔い身の処し方であり、
何という高邁な精神でしょう。
急激に時が流れた
幕末から明治にかけて、
坂道を下る人生を送らざるを得なかった
吉兵衛の物語は、
同様に人生の坂道を
静かに降りる段階に達した私の心には、
強く響くものがありました。
かくありたいと思った次第です。

〔本書収録作品一覧〕
1944|木の都 織田作之助
1946|沼のほとり 豊島与志雄
1946|白痴 坂口安吾
1947|トカトントン 太宰治
1947|羊羹 永井荷風
1947|塩百姓 獅子文六
1948|島の果て 島尾敏雄
1949|食慾について 大岡昇平
1949|朝霧 永井龍男
1950|遥拝隊長 井伏鱒二
1951|くるま宿 松本清張
1952|落穂拾い 小山清
1952| 長谷川四郎
1952|喪神 五味康祐
1953|生涯の垣根 室生犀星

(2021.5.2)

Robert KarkowskiによるPixabayからの画像

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